早川集落とは

早川駅前が吉浦との境 譲れない境界がここにある

早川駅前、すがいやっきょく脇の国道と旧道をつなぐ道路が吉浦と早川の境となる。

駅から通りを抜けて国道へ出て海を見渡すと、海面にいくつかの小さな岩が顔を出していて、その中の一つをカッブ岩と言い、海ではそのカッブ岩を境に吉浦と早川が分けられている。

海の境なんて必要なの?と思われるかもしれないが、例えば夏に村の人間がサザエやカキを採る際に夢中になり過ぎて、うっかり境界を越えて隣村の海に入れば話の種になる。

ここのように岩でもあればスッキリしているのに、〇〇川の延長線なんて所は沖から見ると何処にいても延長に見えるのだから、ちょっとややこしい。「この前、隣村の〇〇が境界を越えて入って来てた」とかで話の種になる。江戸時代では無く現代の話。もっとも現代では本気の抗議というより酒の肴でもあるようだ。

貝採りは、今でこそ夏の間の副業にしている人ばかりだが、テングサを採っていた昭和中頃までは海産物は家計の柱を担うような大きな現金収入の種だった。より好条件で広範囲な採取場所の確保は死活問題だった。

このカッブ岩付近では船の事故も起きている。戦後、朝鮮からの引き揚げ船が時化た日にこの付近で座礁した。何かの明かりを灯台と間違えて岸に寄り過ぎたという話もある。

今でも海中には残骸が残るという。上海府の浜は砂地のように見えても海面より少し下は岩が連なっている事が多いから船は油断できない。

吉浦との境の岩

すがいやっきょく脇の小路とその先に見える小さな岩が村境の目印

江戸時代に起こった野潟と間島の水争い、柏尾と吉浦の水争い、早川と馬下の境界争いなど、小さな集落が集まる上海府でも土地や川の利用を巡っては度々争いが起こった。

今のように自動車で簡単に市街地へ行き生活の糧を得ることが出来なかった時代、集落の周りの物は全てが生活を支える貴重な財産だった。それを、おいそれと簡単に他の集落に渡すわけにはいかない。

圃場整備が行われる前の上海府には小さい三角や台形、扇形など歪な形の田んぼが並んでいた。これは耕作できる場所を少しでも確保しながら広げていった結果かもしれないし、山上の海岸段丘上は条件が良いとは言えないのに、どこの集落でも必ず田畑が作られていた。

婆ちゃん達は毎日毎日、鎌の入った蔓かごと、使い込んだ鍬を肩に担ぎ、集落の裏山の急坂を登ってイモやナスなどを育てた。今は山上の畑を耕す人はほとんどいなくなった。

越後早川駅

越後早川駅 2番線がありそうな場所にレールが無い違和感

早川駅前は大正以降に新しくできた住宅地

越後早川駅前の住宅地を北に抜ける途中、海側に駐在所がある。高齢化が進む上海府の中でも、もっとも高齢化率が高いのが早川だ。その中に若手のお巡りさんが家族連れて赴任してきてくれるのは、早川集落の平均年齢をぐっと下げる事につながる有り難い話だ。

もっとも問題自体何も解決はしないし、お巡りさんにしてみても変に期待されるのは迷惑な話だろうが…

この早川駅の周辺は区有地が多い。もともとは砂丘のような場所だったが、大正13年に羽越線が開通して早川駅ができると、駅員のための施設や荷物を取り扱う業者ができ、周辺にも建物が建っていった。昭和15年頃には鍋倉鉱山の従業員用の長屋もあった。

一帯は昭和に入って世帯数が急増したため、当初は昭和村とも呼ばれたという。

ソフトバンクのアンテナ基地を過ぎて村中の道は国道と合流する。

駅から北の通り

越後早川駅から北へ向かう通り 途中に駐在所がある

長門屋次郎左衛門 越後の名主に名を連ねた伝説の廻船業者

国道を進んで早川を渡る橋、早川橋の直前で旧道は村中へ入る。

国道の早川橋を渡り終えた海沿いに直径15メートル、高さは大人の背丈程度のこんもりとした丘が見える。

ちょっとした土塁のようにも見え、丘の斜面には大きな石がいくつも転がっている所を見ると石組みでもあったのでは?と想像させれられる。丘の上には数本の欅の木が生えていて周りの住宅地と少しアンバランスだ。

これが何かということは、はっきりとは分からない。

この周辺は江戸中期から明治にかけて活躍し、越後の名だたる名主の中にも名を連ねた事もあるという廻船問屋、長門屋次郎左衛門の屋敷があった場所といわれている。

長門屋次郎左衛門は上海府でもっとも成功した豪商で、最盛期には7、8艘の船を所有し、酒田や新潟の商人にも多額の金を融通したという。□に長という形の印だったため、角長(かくちょう)様とも呼ばれていた。

同家は早川寺の本堂の修復や本尊の再建などにも多くの寄進をし、近隣には見られないような立派な寺社を現在に残したのだが、明治に入って廻船業が衰退し始めると没落して屋敷跡は売りに出されたようだ。

昭和の初め頃だろうか。早川に旅の者がやってきて椿の大木の根元や、海沿いの丘の近辺を掘らせて欲しいと言った。どうやら長門屋次郎左衛門の隠し財宝が眠っているという噂を聞いてやってきたのだという。土地の所有者に許可を得て掘ってみたがお宝は見つからなかったようだ。

一説には、この海沿いの丘は長門屋次郎左衛門が庶民に給料を払うための公共事業だったのでないか?とも言われている。

謎の盛り土

長門屋次郎左衛門に関係するといわれる謎の丘

本気出せていないだけ 成績不振の原因は練習不足?

話を村中の旧道へ戻すと、早川を渡る橋手前の山側に広場がある。遊具も何も無いのに地元では遊園地と呼ばれている。

元々は田んぼだった所を埋め立てて広場にしたので水はけが悪い。ここでは早川地区独自に運動会も行われていた。

日程的に上海府ふれあい大運動会直前に行っていた為に、それがちょうど良い練習となっていたが、平成に入り、いつしか集落の運動会は開催しなくなった。

当時の早川集落は、ふれあい大運動会でも成績良好だったという。現在では練習不足なのか、それとも若者不在が原因なのかBクラス。

早川の周辺には昭和20〜30年頃に鍋倉鉱山の鉱夫の生活する飯場があった。少年時代にそれを見た住人は、厳つい風貌にカタギの人間には無い、恐ろしげで近寄りがたい雰囲気を感じた記憶を残す。

早川に掛かる橋

早川に掛かる橋 右に集落の運動会を行っていた広場もある

能登国より勧請したと伝わる石動神社はセンター内に

広場より線路を挟んだ山腹、120段の急階段を登った先に石動神社が祀られる。祭神は大玉命・外三柱九神で祭礼は4月13日と11月13日。古来、能登国石動本社より勧請したと伝わる。

石動神社にはいつ頃の話か分からなが、村の太田佐次兵衛が海中より引き上げたという神像が祀られる。太田佐次兵衛は現存する屋号だ。神社にも鳥居などを初めとして長門屋次郎左衛門の寄進物が残る。

地元では初詣、二年参りなども行われてきたが、高齢化で参拝する人も数えるほどしか居なくなったために数年前に村のセンターに御霊を移した。有り難みが無いんじゃないかという声も聞こえるが、名を捨てて実を取ったといった所か。

社殿の細やかな彫り物などは流石で、このまま放置してしまうのは少し忍びない。

早川の石動神社

石動神社の鳥居 長門屋の文字も大きく残る

長門屋次郎左衛門の財力を今に伝える早川寺

村中の道沿いにセンターとは別に公民館がある。小規模な集まりはセンターではなく公民館を使う。

更に進んだ所に小さな十字路があり、山側に踏切を越えた山の麓にお寺がある。

お寺は耕雲寺末寺の北海山早川寺。前述の通り、村の有力者だった長門屋次郎左衛門の財力を拠り所にして盛んに本尊、須弥壇、仏具、お寺の造営が行われ、また多くの船絵馬が納められている。

境内の中に本堂、庫裏、秋葉神社、天王様、観音様といった建築物や石碑、お地蔵様、双墓制の卵塔などが所狭しと配置されている。天王様にはきゅうりをお供えし、それ以前にきゅうりを口にしてはいけないという風習があった。

境内から踏み切り脇に惹かれた清水は夏はひんやり冷たい。貯められた水の中にゲタ印の付いたスイカが沢山浮かべられるのは、冷蔵庫が大きくなかった時代の夏の風物詩だった。

早川寺

早川寺は長門屋が中心となって寄進に努めた

墓地を通って馬下境の椿川へ

集落の北へ向かうと墓地が見える。昭和40年代の国道工事の際には墓地の移転があり、掘り起こした墓から出た土葬の丸桶の棺を壊さぬようにソロソロと埋め戻したという。

墓地の中には戦後、浜に流れ着いた機雷で命を落とした子どもたちを供養する地蔵もあり、戦争での痛ましい過去を物語る。

航空写真で付近を見るとの山側の畑の中に200メートル程の一本の筋が見える、これは羽越線複線化前の単線跡だ。今は綺麗に草刈りされて畑仕事に使われている。小川を渡る橋に鉄道時代の面影を残す。この辺りも田んぼを畑に替えたものが多いのではないだろうか。

国道を進むと歩道が山側から海側へ切り替わる場所がある。この付近の川が椿川と呼ばれ、馬下との境になる。江戸時代、この川近辺では早川と馬下が肥草を巡って対立した記録が残る。

吉浦に次いで軒数が多い早川集落だが若者が少ないように感じる。いや、実際少ないだろう。

とは言え、嘆いてばかりいても仕方ない。出来ることから始めよう。かつて長門屋次郎左衛門がもたらした威光を取り戻し、再び上海府、そして村上市に確たる存在感を示していくために。

墓地内の地蔵

機雷で命を落とした子どもたちを弔うお地蔵様

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