吉浦集落とは

代理人を雇うがハズレ 普川をめぐり柏尾との争い

普川(ふこがわ)より北が上海府で一番軒数の多い吉浦となる。

江戸時代、普川ではその用水の扱いに関して吉浦と柏尾の間で争いがあった。

文政7年(1828)、柏尾村が吉浦村に対して、普川の普請を勝手に行ったのは不当であるとして寺社奉行へ訴え出たものだ。

柏尾村の訴えでは、これまで川の中央を村境として利用し、普請をする際は双方が立ち会って行ってきたにも関わらず、今回は吉浦村から何の連絡も無く、勝手に柏尾の杭木を取り払ったり、川筋を替える普請をしてとても理不尽なのでこのような事が無いように取計らって欲しい、といった内容だ。

訴訟については、江戸の評定所に両村の代表数人ずつが出府して吟味が行われた。

これは彦八の手記なので本人びいきはあるだろうが、奉行の質問に的確に答弁をする柏尾の彦八に対し、吉浦が雇った塩野町村の与惣兵衛は奉行の質問にしどろもどろだったという記録が残る。

与惣兵衛はこうした村同士の訴訟の代理を請け負い口利きで稼いでいた者らしいが、村の事情も分からず役目を果たせなかったようだ。この時代にこうした輩が居たというのも興味深い。

普川

柏尾と川の利用を巡って争いとなった普川の橋

拾い上げたお地蔵様に命を救われるも、移動して事故多発

普川より住宅地まで2車線の幅広の直線道路が続く。集落内道路でこの広さは他に無い。

T字路の少し先にお地蔵様が祀られている。両脇に石灯籠が建ち、大切に扱われてきた様子が感じられる。

お地蔵様には伝説がある。

その昔、セキバタと呼ばれる屋号の家の者が海中より引き上げて祀ったお地蔵様だという。その後、セキバタが海で嵐にあった際に地蔵の化身と思われる坊さんに助けられた。

道路拡張の折には、地蔵様を移動させたらその場所で事故が多発したという。セキバタの夢にお地蔵様を元の位置に戻すようにお告げがあり、それに従い位置を戻したところ事故は起こらなくなった。

この話に限らず、どういうわけかお地蔵様と因縁のある家柄というのがあるようで面白い。

セキバタ地蔵

様々な逸話のあるセキバタ地蔵

小学校跡地はグループホームと子育て支援センター

墓地をすぎて集落の家並みに入った辺りで、グループホーム上海府、子育て支援センターと道路を挟んで吉浦郵便局がある。

子育て支援セターは上海府保育園だった場所だ。少子化のために上海府小学校より一足早く閉園となってしまった。建物自体は新しく、平成12年に上海府支所の隣から移転して新築された。今風の木肌を生かした造りとなっている。

グループホーム上海府と保育園の敷地に吉浦小学校があった。体育館が辛うじて残されて地域のスポーツクラブなどによって使われているものの、特に海側外壁の老朽化が激しく、いつ閉鎖されてもおかしくない状態となっている。

郵便局は上海府で唯一の金融機関でもある。船乗りの稼ぎが好調だった頃、局としての貯金高は相当なものだったらしい。今では採算が取れるのか(取れないだろうけど…)心配になる。

郵便局は上海府村時代からの遺産とも言えなくもないが、そういえば、役場や派出所などは柏尾だったのに何故郵便局は吉浦だったのだろうか。

上海府子育て支援セター

吉浦小学校跡地の子育て支援センター

上海府最後の雑貨屋さん、阿部酒店

村中へ向かうと道がクランク状に屈折する。城下町や宿場町では防衛上の理由でこうしたクランクを設置する例がある。しかし吉浦の場合はそれと違い、自然に出来たものだろうか。郵便局は現在の場所に移転する前はこのクランク付近にあった。

クランクを過ぎて少し行くと阿部酒店。お酒、たばこ、日用品などを扱う地域の雑貨屋さん。昭和の終わり頃までどこの集落にも存在したこうしたお店は、今や上海府ではこの阿部酒店だけになってしまった。

日々の売上を追い求める商いではない。集落には移動手段の無いお年寄りも居て、そうした人達の要望に応えていった結果なのか、思った以上に様々な品物を取り扱っている。何としても残ってもらいたい。

阿部酒店

上海府最後の雑貨屋になった阿部酒店

消防小屋を過ぎて橋を渡る。下川(したがわ)と呼ばれるこの小さな川、橋の下を見ると水が堰き止められる様になっている。非常時にはここに水を貯めて消火用の水として利用できる工夫がされている。集落の奥まった所では、自動車を横付け出来ない家もあるので火の元には十分注意したいところ。

水路

防火用水として利用する工夫がされた水路 欄干に堰き止め用の板がある

村の創立伝説と雲冲寺改修に力を注いだ十六人衆

吉浦のお寺と神社は集落内のメイン道路を山側へ入った山裾にあるが、線路で分断されてしまったので自動車で行くには南側の踏み切りを渡らなくては行けない。

神社は雷神社。寛治年間(1087〜1094)に加茂次郎義綱の従者である阿部善左衛門と片野甚左衛門という者が村を創立し、氏神を山城国加茂本社より勧請したと伝わる。確かに吉浦には片野が多いがどうなのだろう。

お寺の方は龍皐院末寺の龍谷山雲冲寺。檀家には廻船業で財を成した「十六人衆」と称する有力者の家があり、文政元年(1819)の改修の際に競って寄進をした。7年の歳月を掛けて完成させたお寺は、上海府では長門屋次郎左衛門が中心となって寄進した早川寺と並んで立派なものだ。

同じ敷地に観音堂や金毘羅堂も建っていて、当時奉納されたいくつもの船絵馬が残る。一度船出すれば、必ずしも故郷に帰れるとは限らない当時の船乗りの心境を垣間見る。

吉浦雲冲寺

十六人衆の寄進で造営が進んだ雲冲寺

自然に還りつつある鍋倉鉱山跡

立派な集落センターを通り過ぎると道が広くなる。

ガソリンスタンドがある。少し先ににもう1施設あり、上海府では吉浦にしかガソリンスタンドは無い。やってなさそうで、やっている絶妙な雰囲気がいい。

このガソリンスタンドの向かい辺りから、昭和20年頃には鍋倉鉱山への道が拓かれていた。今でも何となく踏み切りだった雰囲気が残っている場所から線路を渡って山の斜面を右側に登って行く。タングステンの採掘を目的に大日川上流に開発され、10年ほど稼働したようだ。

当時は山中の鉱山付近に家族で住み、そこから学校へ通ってくる子どもも居た。また自動車はまだ珍しく、鉱山で所有していたトラックは村の仕事にも使わせてもらい重宝したという。トラックが通ったはずの道も今では草木が生い茂ってたどる事も困難だ。

北側の住宅地と地域に欠かせない医院

ガソリンスタンドの先からは、越後早川駅が作られてからの比較的新しい住宅地となっている。

戦後から上海府で唯一の医療機関があり、石山医院、大沼医院となって現在は瀬賀医院が診察を行う。

基本的には内科・呼吸器科・アレルギー科となっているが、子どもからお年寄りまで気軽に見てもらえるので、地域に欠かせない医院となっている。地区外からの来院も少なくないように見受けられる。

小路を挟んで、すがい薬局から北が早川となる。

瀬賀医院

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