段丘上に縄文・弥生時代の遺物 古墳時代以降は稲作のために沖積地へ
縄文時代は1万2000年前頃から始まったとされるが、上海府地区では縄文時代後期・晩期の遺跡が多い。
現在の集落より高い海抜30〜50メートル程度にある海岸段丘上に縄文遺跡が連続している。確認されているだけも17個所の遺跡があるが、正式な発掘調査はされていない。
山上の畑から石器や土器が見つかったという話も良く聞いた。現在ではその畑もほとんど耕す者は無く、自然に還りつつある。
昭和46年、滝の前の国道工事中に遺跡が発見された。後の村上市教育委員会の調査で直径5、6メートルの円形の竪穴式住居跡を三つ発掘し、弥生時代の遺跡であることが確認された。
その後、この「滝の前遺跡」は「古代ランド」というテーマパークへと変貌した。
段丘上より低く、集落に近い海抜10〜20メートルほどの沖積地からは、古墳・平安時代の土器が出土している。「ふるさと上海府の歴史」では、住民が段丘から降りて水田耕作をするようになったためとしている。
日本書紀には、大化3年(647年)の頃には東北への進出のため、渟足柵や磐舟の柵の備えとして越や信濃より民が送り込まれた事が記されている。
もともとの郷土に暮らしていた民と大和政権により送り込まれた民が融合し、後の越後国に続いたのだろうか。
鎌倉時代には源義経が伝説を残し、その後本庄氏〜上杉家〜村上藩の知行となる
弥生時代以降、どの様な形で集落が形成されていったのか判然としないものの、鎌倉時代には岩ヶ崎や間島、馬下に源義経が通ったとされる伝承が残る。
滝の前の多伎神社に弁慶が付けたとされる観潮閣の名や硯石の伝説、間島と柏尾間の一跳トンネル、馬下で馬を降りた伝説などだ。
上海府の村々の姿もはっきりと描かれているのが、村上城から本庄氏が去った後に当地を知行した上杉家に伝わる慶長2年(1597)「越後国瀬波郡絵図」。
戦国時代には村上一帯は本庄氏に支配されていて、本庄氏は上越の上杉家に従っていた。
ところが天正16年(1547)に庄内へ攻め込んだ戦が原因で本庄繁長は秀吉に領土を没収されてしまう。
本庄繁長に代わって村上の領主となったのが上杉家臣、直江兼続の弟である大国実頼であり、この時に作られた「越後国瀬波郡絵図」が米沢の上杉家に残っている。
当初描かれたであろう越後7郡でも、残っているのは瀬波郡と頸城郡だけだ。
693cm✗243cmという巨大な楮紙にカラーで描かれていて、岩ヶ崎が「岩屋か崎」、間島が「間嶋」、早川が「早河」とされているが、絵図からは現在と変わらない集落単位である事、また製塩が行われていたことも伺い知れる。
それぞれの村の軒数や石高についても記載があり、岩ヶ崎が3軒、大月10軒、野潟7軒、間島6軒、柏尾55軒、吉浦、早川、馬下がそれぞれ18軒と、柏尾だけが突出して多く、他は現在よりもかなり少ない。柏尾だけ軒数がやけに多い、かといって石高が比例して多いわけでもないのは何故だろう。
慶長3年、上杉家は秀吉の命で会津へ国替えとなり、その後村上には様々な大名が入ってくると上海府も主にその支配下におかれた。
越後国瀬波郡絵図に見る石高と軒数
村名 | 本納 | 縄ノ高 | 此外 | 家 |
岩屋か崎村 | 2石3斗4升 | 5石7斗4升 | 3 | |
大月村 | 44石1升2合4勺 | 57石6斗6升2合 | 20俵塩但2斗入 | 10 |
野潟村 | 38石7斗6升5合4勺 | 43石3斗3升8合 | 7 | |
間嶋村 | 51石2斗3升2合 | 53石9升 | 6 | |
柏尾村 | 66石9斗8升5合 | 69石6升2合 | 55 | |
吉浦村 | 42石1斗5升 | 52石6斗2升3合 | 18 | |
早河村 | 27石8斗4升 | 43石6斗5升3合 | 60俵塩但1斗四升入 | 18 |
馬下村 | 47石6斗2升 | 49石7斗7升6合 | 18 |
※本納は上杉氏が家臣から差出された定納高で、縄ノ高はその後の検地による高とされる。
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