上海府を南北に分ける山
上海府を半分にすると岩ケ崎・大月・野潟・間島の南側と、柏尾・吉浦・早川・馬下の北側といった具合に分けられる。
実際に上海府小学校が開校するまでは、それぞれ野潟小学校と吉浦小学校として小学校も区分されていた。
むき出しの岩山が海岸にそそり立つ荒々しい地形の笹川流れ。ところが村上市街から向かうとその入口となる上海府には、笹川流れのような地形はほとんど見られない。馬下の北端を除けば唯一、間島と柏尾の境の山が直接海に落ちて平地を分断している。
そんな事から、岩ケ崎・大月・野潟・間島の南チームと、柏尾・吉浦・早川・馬下の北チームは何となくグループ分けされて、小学校が別々だった頃には多少の対抗意識はあったと思う。
このように上海府を南北二つに分けている山があり、その名を「一跳山(ひとはねやま)」と言う。
山の名前の由来は、あの有名人の逸話
一跳山の名前は源義経の伝説に由来する。
鎌倉から奥州に落ちのびる際にこの山の麓まで来た義経。当時、山を越えるには峠道を通るしかなかったのだが、それも面倒だと馬に乗ったまま「エイッ!」と(言ったかどうかは分からんが…)一跳で山を越えたというのが地名の由来となっている。
いや無理だろ…という話はさて置き、上海府にまで足跡を残してくれた義経さんに感謝。
現在使われる新道は一跳山を避けて海側へ迂回している。この道が作られたのが平成5年頃で、それ以前はトンネルを通っていた。もともとは大正時代に掘られた隧道があり、それより昔は山を越える峠道が生活道として歩かれたようだ。
背後から迫る恐怖 ヒトハネトンネル
一跳山に作られたトンネルだからヒトハネトンネルな訳だが、素掘りにコンクリート吹付けで幅も狭く、天井から水滴が滴り落ちる洞穴に近いような雰囲気だった。
中の暗闇に踏み入ると、わずかに設置された蛍光灯の明かりは心もとなく、路面もあちこちコンクリートが傷んでガタガタ、当然歩道は無くて徒歩や自転車で通行しようものなら文字通り車に跳ねられそうなトンネルだった。
南グループにしてみれば迂回路ができるまでは上海府中学校への通学路であって、闇の中で背後から迫るトラックの轟音は恐怖だった。
トンネルの柏尾側坑口の東は空から見るとUの字に岩壁がえぐり取られたような断崖で、赤茶けた岩肌が露出している。近世では村上城の石垣に使われた石を採った場所だった。
村上城の石垣と岩船港の堤防に使われた石材
元和4年(1618)に村上城に入った堀直竒の時代に近代城郭へと大改修された際に、多くの柏尾石が切り出されて利用されたという。一帯が岩山になっており、海も目前なので船で城下に石を運ぶには都合が良い場所だった。
現在でもお城山に累々と積まれている石垣が上海府の石だと思うと少し誇らしい。ちなみに近年行われている村上城石垣修復には柏尾石が使えないため、質感の似た山形県最上町産の富沢石を使用しているとの事。
一跳山の岩石は近代の開発にも利用された。大正時代に再び採石場となり、爆破して砕いた岩を岩船の築港用石材として利用した。
伝説の洞窟 神様だけが通ることが出来る?
周辺には岸壁の中にいくつかの洞窟が見られる。柏尾の記事にも書いたが、その洞窟にも言い伝えがあり、簡単に言うと次のようなもの。
その昔、一跳山にある洞穴の先がどうなっているのか確かめたくなった者が中に犬を放したという。犬は入り口には戻らず、なんと朝日地区蒲萄の矢葺明神の洞穴から現れた。矢葺明神が男の神様で柏尾の塩竈神社が女の神様だから通い道だったという。
というお話。実際には洞窟は全て行き止まりとなっている。隠し通路でもあれば話は別だが…
山上には隧道が出来るまで使われたと思われる山越えの道があり、周辺の平場には畑も作られていた。古い航空写真を見ると山の上に広がる畑の様子がよく分かる。道は隧道が出来て山越えが不要となっても、畑への道として昭和の終わり頃まで利用された。
村上市史民俗編によると、この峠道の上にはお地蔵様があったという。現在もそれとなく峠道をたどることができるが、お地蔵様を見つけることはできない。
実は峠道の柏尾側の登り口にあたる海水浴場駐車場にお地蔵様があり、これが山の上にあったのではないかと推測できる。
上海府の平地に飛び出した岩山は、ささやかながらも幾つかのエピソードを残して現在も佇んでいる。