村上城の石垣採掘現場と一跳山にまつわる伝説
一跳山を越えた所から柏尾集落となる。
旧トンネルの北側坑門は扉は無くコンクリートによって完全に閉鎖されている。すぐ山側にはJRのトンネルシェードがあり、一帯は岩肌をあらわにしている。
ここは村上藩主、堀直竒の時代に城郭と城下の拡張整備のために石材が切り出された場所だ。石材は船に載せられて城下まで運ばれた。石切場の作業には上海府の住民も割り当てられたという。
船が着岸できる岩山で城下から一番近い所、という点で考えると一跳山は理にかなう。一跳山では、大正から昭和にかけても岩船港の護岸工事のための採石が行われた。
近づくのも躊躇われる最も山側の深い部分や、道路脇の擁壁の奥が洞窟のように深い横穴になっている。それが採石によって出来たのか、もともとの形状なのかは分からない。
実は一跳山には義経の話と別の伝説がある。
その昔、一跳山にある洞穴の先がどうなっているのか確かめたくなった者が中に犬を放したという。犬は入り口には戻らず、なんと朝日地区蒲萄の矢葺明神の洞穴から現れた。矢葺明神が男の神様で柏尾の塩竈神社が女の神様だから通い道だったという。
眉唾ものの話だが、具体的な出現場所が明らかなのが面白い。

村上城の石垣に使われた一跳山の採石場跡
最後の砦、柏尾海水浴場から大川へ
一跳山を過ぎた所で柏尾海水浴場がある。
最盛期は5個所あった上海府の海水浴場も、2018年で野潟が辞めてしまったので残るはこの柏尾海水浴場が最後の砦となる。施設や駐車場はそれほど広いとは言えないが、ビーチは上海府の中で一番広いのではないだろうか。以前は組合で運営していたが現在は民間企業が運営をしている。
海水浴場付近の前の黒っぽく平たく広がった岩が八反島(はたじま)で、別名を馬糞岩と言う。義経の馬が一跳山を飛び越え着地した拍子にやらかしたようだ。
八反島北側の少し沖にある3つの岩をそれぞれ茶籠岩、中之島、大島という。少年は茶籠岩をどの高さまで上がって海面に飛び込めるかで勇気が試された。
左に小さな松の生える砂丘、右に田んぼを見ながら国道を進むと大川と呼ばれる川があり、橋を越えると柏尾の住宅地となる。

秋の初めに海で遊ぶ人々。海面に八反島、茶籠岩、大島などの岩も見える
上海府では珍しい国道より海側の住宅地
柏尾は他の集落と違い、国道の海側に平地が開けている。
昭和40年代までは集落内の道しか無く、集落をバイパスして吉浦へ抜ける国道が出来た当初は観光道路と呼ばれたらしい。多くの田んぼを潰したため、国道の開通には反対意見も少なくなかった。
その後、集落の海側をぐるりと回る道路も作られて利便性は大幅に向上した。
国道沿いには近年、イタリアンレストラン「カーサ・デル・ファーロ」が開業した。古民家を改装し、外観は黒をベースにした洒落た店構えとなっている。
海こそ見えないが、美味しい空気の中で味わう至福のひとときを求めて市街地からお客さんが訪れる。地元の人間は舌を噛んでしまい、店名をいつまでも言えないのが玉にキズ。
カーサ・デル・ファーロの北側、国道と住宅地の間に田畑が広がる。元々は田んぼだった思われるが、現在はほとんどが畑として野菜作りに使われている。田畑をよく見ると一つ一つが小さく、扇形や台形になっている。区画整理が実施されていない昔ながらの形状を残す農地だ。
反対に線路を挟んだ山側には綺麗に圃場整備された田んぼが広がり、その向こうには普済寺末寺の西来山柏樹寺も見える。明治期、柏尾に居た腕利きの宮大工が建てたという。
中学生の頃、自転車で通いながら国道、線路、田んぼを隔てて山裾に見えるお寺は昔話に出てくるような風景で、何故か別世界のようにも見えた。

国道沿いにオープンしたレストラン カーサ・デル・ファーロ
大村 V.S 貧村 水を巡っての争いはここでも
柏尾では村のすぐ南を流れる大川と、北の吉浦境である普川(ふこがわ)の水を引いて田んぼと共同の用水として利用している。共同の洗い場は、○○(屋号)の池と呼ばれて年一回村人による清掃が行われる。大通りには見かけないが少し入った所に7、8個所の水場があって利用されてきた。
江戸時代に起こった間島と野潟の水争いのように、柏尾と吉浦も水を巡って争った歴史を持つ。
文政7年(1824)の出来事だ。文書では吉浦の人間が勝手に普川の普請を初めたことがきっかけとなっている。柏尾の訴えでは「商船を何艘も持つ大村の吉浦が貧村の柏尾を侮ってこうした行為に及んだ」というような事が書かれ、当時の村々の様子がうかがえて興味深い。
北前船で成功した吉浦、早川は他集落から羨望の眼差しを持って見られていたのだろう。
勝負の方は、柏尾側が有利な判決となって幕を下ろしたようだ。

柏尾の水場は、小規模のものが数多くある

水場はざっと数えただけで6箇所発見
伊能忠敬も参拝した?村中にある塩竈神社
柏尾集落の中程に塩竈神社がある。他の集落では村外れの高台に祀られているのに、柏尾だけは集落のほぼ中央にある。
小野五郎右衛門、小野勘三郎という者が奥州の本社より勧請したという。こちらもお寺と同じ柏尾の宮大工が施工したらしい。祭礼は4月24日と10月24日で若干の出店もある。
もともと山上にあったものを村中に移したという伝説もあるようだ。住宅地内にあり、学校からも近かったので境内は子どもたちが遊び場にしていた。子ども好きな神様で、子どもが多少の粗相をするのは許されるという。
神社の近くには伊能忠敬が日本の沿岸測量のために訪れて宿泊した庄屋、惣兵衛家が健在だ。当時、伊能忠敬は自分たちを迎え入れるために道の整備までしてくれた上海府の民の誠実さに関心した様子を日記に記している。
役場・派出所・学校・保育園 上海府のヘソだから
塩竈神社の手前から少し上り坂になる。平坦に思えても小学校跡のある集落の南側は少し高く、もともと砂丘のような地形だったのかも知れない。
北に進むと三叉路となっていて、ちょうどY字の又の部分が旧上海府役場となっていた。現状を見る限り20メートル程度の三角形に近いような敷地だ。
こんな小さな中に役場があって、まがりなりにも議会を開いていたのかと考えると健気にも思えてくる。上海府村が存在していた明治22年から昭和29年までの65年間には、多くの名も知れぬ役人や村議が上海府をより良くしようと集い、そして思いを語った場所のはずだ。

入り口の石段と敷地が残る上海府役場の跡
ここには農協もあり、現在の消防小屋の場所には派出所もあったという。消防小屋の裏、国道との間には昔から変わらず墓地となっている。
さらに消防小屋の先へ進むと平成31年3月に惜しまれながら閉校した上海府小学校跡。上海府小学校は平成7年に野潟小学校と吉浦小学校が統合されて新しくできた小学校で、それ以前は上海府中学校だった。羽越線開通時には柏尾駅の建設予定地だった場所でもある。
上海府小学校跡の北が旧上海府保育園跡に建てられた下水処理施設、隣が市役所の出先機関である上海府地域コミュニティーセンターとなる。駅の話は立ち消えたが、柏尾集落は上海府の地理的中心部ということで公的な施設が多かった。

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