馬下集落とは

生活のため 村境の僅かな肥草も争いの種に

早川の北、椿川を過ぎて馬下集落となる。

早川集落のページでも触れた椿川周辺の境界争いについて、「ふるさと上海府の歴史」に記載されているのでもう少し紹介する。

時代は天明元年(1781)、早川村の人々が数年前に取り交わした期限付きの約束を破り、馬下側に立ち入って下草刈りをしていると馬下村が訴えたものだった。

これに対して早川村では、約束した期限を越えては取ってはいないと反論し、主張は真っ向から食い違った。

争いは、水原の郷宿の執り成しによって評定所までは行かずに条件付きで和解したようだ。

この時代、村上藩はようやく内藤氏で落ち着いた頃で、早川、馬下の両村はともに幕府領であって水原代官所の支配を受けていた。だから水原の郷宿が仲裁に入ったものと思われる。

これと異なったのが野潟と間島、吉浦と柏尾の争いで江戸の評定所までもつれた。それぞれの村が幕府領と村上藩領となっていたので、同じ上海府でも溝が深かったのだろうか。

この争いの発端になっている下草刈とは秣を採取する事だ。秣は牛馬のエサとなったり、刻んで糞尿とまぜて田畑の肥やしとする。化学肥料のない当時は貴重な資源だった。

現在椿川の馬下側を見てもそれほど広い土地はない。この些細な土地でさえ村同士の争いの種になったという史実は、当時の人々がいかにギリギリに生活していたかを想像させられる。

現代ではほとんどの人が村の境界の事などは見向きもしない。これは日本人の生活が豊かになったからだとも言える。

人間がもっと豊かになれば、国同士の境界争いも無くなる日が来るだろうか。昔は国境なんて些細なことで揉めてたよね…と。

馬下の椿川

現在の国道付近の椿川

馬下の名前の由来 岸壁前に義経も馬を下りた

椿川から馬下の住宅街まで、国道脇や線路を越えた山裾の方に少しばかり平地があって田畑が広がる。草木が生い茂り、放棄されたような田畑も多くある。もともとはほとんどが田んぼだった。小さなものは2坪程度も無いし、形も整っていない。

この周辺の農地は馬下集落だけでは圃場整理を行うだけの基準を満たす面積が無く、早川集落と協同で圃場整理を行う案もあった。江戸時代の事を根に持っていたわけでは無いだろうが、早川では反対意見が多く実現するに至らなかった。

住宅地が近づくと集落北の岸壁が存在感を増し、浜辺の波打ち際には薄く広がった岩場が並ぶ。

岸壁と周囲を眺めると馬下の地名の由来が理解できる。

村上から馬下までの間は狭いながらも馬が通られる程度の道はなんとか作れそうだか、この先はそうは行かない。垂直に近い断崖が海まで迫り出し、裾には波が白く砕け、その下は滑落すれば足の届かない深い海が待ち構えている。古来は岩の中に梯子や綱を渡して通行人の手助けとしていたという岸壁だ。

奥州へ逃れる義経が、ここで馬での旅を諦めて馬を降りた事が馬下の由来というのが定説だ。馬下と名前が付くまでは岸壁に鷹が営巣していた事から、鷹ノ巣と呼ばれたという話も聞いた。

馬下北の岸壁

北側の岸壁

火災に合ったお寺 羽越線工事の殉職のお墓も

集落の線路向こう、南側に2軒だけ住宅地から離れて家がある。昔くからの家では無いようだ。あの場所に自動車で行くには北側の踏切を越えてぐるっと山側を回らなくてはいけないが、この線路脇の細い道が国道が出来る前の旧道という。

付近に流れる川は「たつぼ」とか「つきやの川」とか呼ばれていたらしい。「たつぼ」は滝のようになっている個所があるので「たきつぼ」が転訛したのかもしれない。「つきやの川」は国道が出来る以前は水車小屋があり臼をついていたからだ。この名前も強いて言えば…と言う程度で、このように集落の中にある川でも正式な名前が決まっていない事が多く意外に思う。

馬下集落の墓地はもとは集落南側にあったようで、現在でも羽越線のトンネル脇にお墓が二基だけ残っている。海福山永徳寺は集落北側岸壁麓。昭和21年、SLが吹く火の粉を原因とする火災で消失した。戦後の物資不足で、石炭の代わりに使っていた燃料が火の粉を出しやすかった事、下り線ではトンネル直前のために燃料を多くくべる事などが要因だった。

お寺の境内には羽越線の開削工事で殉職した人のお墓もある。これより北は大岸壁の麓を穿つ難工事だった。

今の常識で考えれば死人が出れば家族の元に知らせ、遺体は家に帰すのが当然のように思う。しかし、工事が行われた大正時代には遺体を傷まないように移送させる手段もなかったし、土葬だったので、亡くなった場所に埋葬するのが普通だったのだろう。

工事には無宿人のような人間も多く集められていたという。それにしても縁もゆかりも無い、このような所で人知れず埋葬されるとは、少し気の毒に思う。

当時は、奴隷のごとく酷使された作業員に対しての安全対策は二の次だったのだろう。このトンネル工事で3人の方が亡くなっている事にも驚くし、同時に、こうした人達の犠牲が後の上海府の発展の礎となっていることも忘れられない。

馬下の他、早川集落内にも線路の工事で亡くなった人のためと伝わる小さなお地蔵様が祀られている。

馬下の岸壁

お寺周辺から見る北側の岸壁

様々な伝説取り巻く八幡神社

馬下には八幡神社があり、上海府では唯一、宮司在住の神社だ。そうした事情から馬下には神徒が多い。祭礼は4月15日と10月15日。

馬下八幡神社

八幡神社の社殿へと続く石段

神社の由緒は古く、平安時代に八幡太郎義家が奥州への出陣の際に持ち出した岩清水八幡宮の分霊に由来する云われがある。義家が奥州を平定した後、その従者が村に訪れて亡くなった。それから井上家が社殿を造り崇敬しているという。

また、合祀されている菅原神社は、慶安4年(1651)に疫病が蔓延し祈祷を行った際、木像が浜に流れ着いて神社に安置した事が由来と伝わる。

上海府地区のお地蔵様や御神体には、海に流れ着いたとか、海から引き上げたというような伝説が多いようだ。

神社には義経が残したという馬の鞍と、弁慶が植えたとされるツツジが伝わり大切に保管されてる。

天気の良い日に海を背にして長い石段を登る。息が切れそうな所で境内にたどり着く。社は海に向かって建てられ境内からは馬下の住宅地を眼下に、その先にはどこまも続く青い海と空を一望する。

景色を見ながら義家、義経、弁慶の伝説に想いを馳せるのも心地ち良い。海からのそよ風を受けながら佇めば、物語の真偽もとりあえずどっちでも良くなるだろう。

馬下八幡神社からの眺め

日本海を見下ろす八幡神社境内からの眺め

上海府民でも入る機会の少ない馬下集落内

馬下集落の平地は狭く、村中の道に沿って両側に細長く家が並んでいる。

羽越線は住宅地の南側から踏切を過ぎると、家を避けて山裾ギリギリの場所を通過する。踏切は線路に対して鋭角に渡っていて通り難い。その上、北側はすぐにトンネルになっていて電車が迫っても直前まで気付かないだろう。当初は遮断器や警報などは無かっただろうから、渡るのには気を使ったのではないだろうか。

他の集落は自動車で村中を通り抜けられるので、時に冷やかしで通ったりする。ところが馬下だけは集落内を通り抜け出来ないので、同じ上海府民でも馬下の集落に入る機会はあまり無い。

集落北側では漁業が営まれている。上海府では趣味のような形で漁船を持っている人は居るが、本業として漁業を行っているのはここだけだ。

かつては県外から住み込みで働きに来る者も多く、馬下に婿取りが多い理由のひとつでもあったようだ。

馬下の踏み切り

踏み切り 角度もありなかなかエグい

上海府北端の交通事情

国道が工事されるまで、馬下から北隣の新保に行くには大岸壁の海側に作られた道を周り、その北に切立つ岸壁に開られた小さな隧道を潜り、鳥越山の峰の鞍部を越えて新保へ至らなくては行けなかった。

岸壁に開られた小さな隧道は、嘉永3年(1850)に早川の早川寺と新保の仏照寺の和尚が先頭になり工事を進めたという。それを元にして昭和41年の国道の工事の際に拡張されたものが現在残る廃トンネルの大正浦隧道だ。平成元年の馬下大橋の開通で役目を終えた。

鳥越山には国道の工事までトンネルは無く、それまでは峰の鞍部を通るか、鉄道のトンネルを歩いて通ったりもした。

新保との境の浜を「んだり浜」とか「んだりばば」とか言った。「村上市史民俗編」では山賊が新保の人間を殺して、んだって(捨てて)いったからと書かれているし、村の人は、先述のように道が険しく自分のババにもかまっていられないから「んだりババ」だとも話してくれた。

周辺の崖からは一跳トンネル同様に、昭和中期に岩船港の護岸工事用の岩石を採取した。発破による採掘が珍しく、面白がって見学したという。

馬下は岩ヶ崎がそうであるように、宅地として使える平地が狭く限られている。ところが、これも岩ヶ崎同様に海府ふれあい大運動会では好成績を収める。ここに、平地が狭い集落は運動会が強いという一つの仮説が立てられた。

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