どうでもいい?かもめ弁当は大月のようで野潟だった
野潟の南側は、かもめ弁当から始まる。かもめ弁当は大月でなく野潟だった。正直、地区外からからあげ弁当を求めてやって来る人達には、どっちだって良い事かもしれない。いや、かもめ弁当を野潟と認めたら大月のバス停は野潟のバス停になってしまうじゃないか。
かもめ弁当から野潟の住宅地までは遠い。その間、別荘があり、喫茶店があり、デイサービスセンターがあり、海府ふれあい広場があり、海水浴場跡がある。
2018年頃に新しくできた喫茶店「芳心」は週末のみ営業、冬期間は休業する。海に面して作られたテラスで波音とウミネコの鳴き声をBGMにカレーを食べ、食後に小説を片手にコーヒーを飲めば、さながらどこかのリゾート地のよう。春〜秋にかけては文句なしのロケーション。
かつての野潟松原は、デイサービスと海府ふれあい広場に
デイサービスセンターのゆきわり荘がある。主に地元の人たちのが利用している。
積極的な広報活動や行事参加を行っていて、上海府小学校があった頃は上小まつりや六送会への参加、駅伝大会の応援など多くの関わりを持ってくれた。小学校が無くなって少し寂しい思いをしていないだろうか。
更に隣が公園施設の海府ふれあい広場で、昭和35年に大月から移転してきた小学校が野潟小学校と改められて開校した場所だった。
平成7年の野潟小学校閉校の後、跡地利用で海に親しむ事のできる公園施設に生まれ変わった。校舎の一部は売店・休憩棟に再利用されている。中に入ると教室の面影が残る。
公園施設は5〜10月の天気の良い休日は家族連れやカップルでまあまあ賑わい、夏休み中は駐車場に車があふれる。
かもめ弁当でからあげ弁当を買い、この公園で海を眺めながら食べるのもオススメのコースだ。もちろん持ち込んだゴミは持ち帰りが鉄則。
元々この一体は黒松林で野潟松原と呼ばれていたという。その北側に鉄道の複線化トンネル掘削工事で出た土砂を敷き均して学校用地とした。
グラウンドの南側に松林の小山があり、休憩時間には良い遊び場となっていた。公園化工事の際に、売店・休憩棟に使われている校舎以外に名残りを感じられるものはほとんど消えてしまった。
本当に辞めてしまった野潟海水浴場
売店・休憩棟を挟んで更に北側の広場がのがた海水浴場跡。辞める辞める詐欺ののがた海水浴場だったが、2018年の夏の営業を最後に本当に辞めてしまった。
入口付近だけが墓参用の駐車場として開放され、それより奥はロープで封鎖されている。上海府の中では広い敷地を持った海水浴場だけに残念だ。
2019年の夏は、隣の上海府ふれあい広場が駐車無料となってとても混雑した。海水浴場が無くなり、この一体の管理体制が脆弱化したとも言える。
ゴミの置き去り、施設に対しての乱暴な行為はしないように重ねてお願いしたい。問題があると上海府の人はすぐに立ち入り禁止にしてしまう傾向がある。
海での安全と子どもたちの幸せを願う片足の地蔵様
海水浴場跡の敷地の南端は野潟の墓地になっていて、その中にお地蔵様が祀られている。上海府の中でも信仰の厚いお地蔵様のようだ。
地元では片足が無いのは船で運んで引き上げた際に欠落したためと伝わっている。また、お地蔵様の祠の扉を閉めると海で災いに遭うといわれ、扉は閉める事が出来ないように片側にしか付いていない。
道路に背を向け、海を眺めるように祀られているのも海上での安全を願ったものだろうか。
7月23日のお地蔵様の日の夜には子どもたちが両親に連れられてお参りに行く姿が見られた。
お供えされたお菓子を一つ、自分が持って行ったお菓子と交換して持ち帰る。家でそれを食べる事でご利益にあずかるという寸法だ。
わらしべ長者のように自分の持って行ったのより高級なお菓子をゲットできる時もあれば、湿気ったビスケットが当たってしまう事もある。
少年にとって薄暗い中懐中電灯で足元を照らしながらお地蔵様へ向かう恒例行事は、日常から少しだけ外れた高揚感と、夏休みへの期待が入り混じった胸の高鳴りを覚える夜でもあった。
のがた海水浴場とは別に、夏季限定で食堂「凪」が住宅地入り口付近の国道沿いで営業をしている。周辺に小屋やちょっとした別荘がある。
明治20年頃、大月尋常小学校建設以前にはこの辺りに野潟尋常小学校があった。
二つの川に挟まれた野潟集落 間島と水バトルの歴史も
野潟の住宅地南の小川を十二川と呼ぶ。野潟の神社が十二神社なのでそれに由来するものだとも言われている。
十二神社にはいわれがある。
昔、野潟の集落に人が居なくなった時、ただ一人残った善左衛門が神社に繁栄を祈願した。その後、水無沢に夜光る物を見つけ掘ってみると神鏡だったという。
神鏡を神社に奉納して信仰したところ、村が元のように繁栄を取り戻したという伝説だ。
十二川を渡る橋の辺りにバス停と集落センターがある。集落センターが建てられる前は公園があり、子どもたちの遊び場となっていた。
松の木の枝を利用した手製のブランコが人気だったが、今では遊び場以前にそこで遊ぶ子どもたちの姿が見られなくなってしまった。
住宅地は国道と並行して南北に伸び、その中を旧道である集落内の道路が走っている。野潟は岩ヶ崎に次いで軒数が少ない。
途中3カ所に共同洗い場があり、野潟では池と呼ぶ。一番南側のものは屋根も掛けられていて雨の日でも快適に利用可能。大月と同じように輪番で水当番が回され、当番に当たった家は取水口に問題が無いかを確認する役目がある。
消防小屋を過ぎると周辺の人家が途切れる。
田畑を見ながら少し行くとその名の通り間島との境である境川。ところが境川を越えた所の一軒だけが野潟に属するという。これは川の流れが元々はこの家より北側に流れていたのが、南側に流れを替えたのが原因らしい。
江戸時代、野潟集落は境川の水の利用権を掛けて間島集落と争い、勝負は江戸の評定所まで持ち込まれた。
野潟区有文書に訴訟に関する文書が残っていて、結果的に間島の敗訴だったことや、当時は境川でなく「かくま川」と呼ばれていた事もうかがい知れる。
現在の野潟に豊富な共同洗い場がある事や、境川の野潟側に水田が広がっていた事(現在は畑が多い)、逆に間島側には水田が無い事もそんな歴史的背景があるのかも知れない。
今では野潟・間島集落ともに仲良くやっているのは言うまでもないだろう。
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