上海府村と新旧村上市

上海府村の誕生 現在の上海府地区に続く礎

明治維新後の廃藩置県を経て、政府は効率の良い行政組織の在り方を模索していた。

その中で上海府は第25大区小9区と呼ばれて組織されたり、間島村外六ヶ村(岩ヶ崎は瀬波連合戸長役場に属した)という連合体として運営された時期もあった。

明治21年に政府が市制・町村制を公布すると、翌年の明治22年、それまでの上海府組7村をまとめていた戸長である、間島の本間於莵彦を初代村長として上海府村が誕生した。この時、瀬波連合戸長役場に属していた岩ヶ崎と滝ノ前の一部は上海府村に編入された。

村の発足当初は間島の村長宅を庁舎として使用していたが、明治25年になって上海府の地理的中心地点である柏尾に新庁舎を建設して移転した。

「ふるさと上海府の歴史」の中に、明治22年の上海府村の決算報告が掲載されている。

収入合計は743円59銭となっており、現在と違って収入の中には国からの交付金はない。村内の営業に対する税収も低いので、当時から産業が少なかった様子も見て取れる。

収入の柱は各家庭にかけられる村税である。500に満たない戸数でこれを徴収し、それだけで学校も含めて村を運営していたのだから大変な苦労だったと思う。

教育関係では瀬波校の付属校という位置づけを経て、上海府村立の野潟尋常小学校(のちの大月尋常小学校)と吉浦尋常小学校が作られた。明治33年には吉浦尋常小学校に商船補習学校が併設されて両小学校の卒業生が通い、船員として必要な技術の指導を受けた。

日清・日露戦争では上海府村からも出征する兵士がいた。日清戦争での戦死者は出なかったようだが日露戦争は村内でも6名の戦死者があった。

明治22年 上海府村誕生前のそれぞれの集落の人口と戸数

集落 人口 戸数
岩ヶ崎 92 15
大月 200 36
野潟 143 26
間島 278 53
柏尾 307 70
吉浦 414 101
早川 371 100
馬下 153 32
合計 1958 433

※村上市史通史編3 207頁より(合計は計算による)

自立の道を歩む上海府村 漁業・テングサ採り盛んに

「ふるさと上海府の歴史」には、大正9年の上海府村の予算書も掲載されている。

この頃には国から少しだけ交付金が出ていたようだが、それでも歳入の10%程度に過ぎない。

明治22年と比べると歳出の項目がより詳しく書かれていて、臨時部を除けば役場費・吉浦小学校・大月小学校の経費だけで70%を超える。土木工事や福祉関係の事業はどうしていたのかと心配になる。

海との関わりが深い上海府には、明治36年から上海府村漁業組合が作られていた。大正4年の組合員数は308人となっている。上海府の全世帯数が400ちょっとと考えられるので、郡内の他組合と比べても加入率はかなり高い。

漁は、小舟で近海で出てサバ・タイ・サケ・イワシ・ヒラメ・カレイなどの魚を獲った。明治末から大正初期にかけては豊漁が続いて湧き立ったという。

魚介類の他には、寒天やところてんの素になるテングサが盛んに採取されて上海府の産業となった。テングサ採りは7、8月に主に女性の仕事として行われた。

「上海府の歴史」に掲載されている女性の夏の一日を見てみる。

早朝3時から8時まで炭担ぎで山に入り、その中で朝食。8時から12時まで田畑で野良仕事。お昼を済ませて13時から19時までテングサ採りとその後の処理。19時から21時まで野良仕事の片付けや準備などを行い、その後夕食、就寝といった様子。

上海府の嫁はこのようにして働いた。今なら完全に労働基準法アウト。それどころか人権侵害も危うい。

女性のテングサ採りは田畑の少ない上海府で貴重な現金収入源であり、年収に匹敵するほどの稼ぎであったから、テングサ採りの達人はすぐに嫁ぎ先が見つかったと聞く。

こうした背景もあり、昔から上海府の女性は働き者で知られていた。「上海府のセヤミコギは下海府で間に合う」ということわざもあったという。

大正13年7月、羽越線の村上、鼠ヶ関間が竣工し、間島駅、越後早川駅が開業した。

上海府村内の駅は元々役場のある柏尾に一駅だけ作る予定だったが、村内の山林を多く所有していた関谷村の市井牧三郎の政治力により二駅となった。柏尾駅の為に用意された用地が後に上海府中学校となった。

昭和・平成と二度の合併 上海府村は役目を終える

昭和に入って中国、そして連合国との戦争が始まると上海府からも多くの人が出征して命を落とした。軍人の戦死者よりも船員として輸送業務に当たった軍属の戦死者が多いのは、やはり船乗りのまちとしての運命だった。

日中戦争以降に軍人71名、軍属142名で村内に213人の戦死者の記録が残る。

戦後、政府はより財政基盤のしっかりした大きな自治体づくりを目指して統合を進め、昭和29年に上海府村・村上町・岩船町・瀬波町・山辺里村が合併して生まれたのが旧村上市だ。

ここに明治22年より続いた上海府村としては閉村を迎える。合併時の上海府村は578世帯、2997人となっており、この頃が人口のピークだったのではないかと思われる。

昭和40年頃には上海府の大切な産業であったテングサの収穫が減り始め、同50年までには壊滅的に採れなくなった。三面ダムの工事の影響で海の環境が変わったためだとも言われているが、因果関係を明らかにする証拠は無かった。

テングサでの減収を補うために取り組んだのが段丘上を利用したイチゴの栽培だった。一時期は各集落にイチゴの出荷場や加工場が作られて、上海府はイチゴの産地となったが、これも長く続かなかった。連作障害や段丘上であることの生産性の悪さもあったのかも知れない。

昭和40年代までは上海府の男性の多くが船員を生業に選んだ。特に当時の遠洋航路の給料は陸の仕事と比べ物にならない程良かったという。興味があれば、一緒に飲んで世界中を巡った当時の武勇伝を聞いてあげてほしい。

また、多くの船員を輩出した当時、年に1度程度しか帰ってこない男性不在の家を守る女性消防団が脚光を浴びた。

平成20年に新村上市となり周辺の4村町と合併する。旧村上市では北に飛び出た存在だった上海府地区も、旧山北町・旧朝日村と繋がったことで何となく中心部的な気持ちになる。

中には旧山北町だと思っている人も居るようだが…もともと村上市ですからー!

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