間島駅より南側は比較的新しい家並み
間島集落は国道345号線と並行して村中の道が南北に伸び、その左右に家並みが続いている。野潟から繋がっているので国道に出る事はない。
野潟集落側から進むと、境川の北側一軒を過ぎた所から間島集落となる。
野潟のページでも書いた通り、境川が集落境であるにも関わらず間島側にある一軒だけが野潟に属する。境川の流れがこの家の北から南側へ変わった事が原因という。
北に少し進むと理容室があった。店を閉めたのは平成中頃だろうか。子どもたちは散髪中に良い子にしていると最後に100円玉を貰えた。
間島駅に近づいて行くと左側に古ぼけた緑色のコンクリートの建物が見える。昭和50年頃まで営業していた食料品店で、朝日屋と呼ばれていたようだ。当時から上海府で鉄筋コンクリートの個人経営のお店は相当珍しかったのではないだろうか。
朝日屋に向かって左隣り、平屋の小屋のような建物では昭和60年頃にそろばん塾をしていた事があった。先生は同じ上海府の吉浦から来ていたように記憶する。
歩けばあちこちギシギシ音を立て、トイレに至っては床が抜けるのではないかと思えるような、当時でも既に年季の入った建物だったが、それから30余年を得た現在でも時が止まったように変わらぬ姿で佇む。こんな所に子どもたちの声が溢れていた時代もあった。
そろばん塾では、早く課題を終えて友達と散々道草しながら帰る事もあれば、友達が一人、また一人と帰っていく中で、課題を終えられずに一人で半泣きになりながら居残りさせられる時もあった。
難工事の末に開業した羽越線 村上〜鼠ヶ関間
間島駅は大正13年7月、羽越線の開通で開業。当初、羽越線の村上〜勝木間は猿沢や塩野町を経由する現7号線沿いのルートも検討されたが、積雪の影響を考慮して最終的に海岸線が選ばれたという。
村上から上海府、笹川流れを経由して勝木に至る海岸線は、山と海に挟まれた僅かな平地があるに過ぎず、山が海まで迫り出して平地すら無い場所も多い。難工事の末に上海府に誕生した新しいライフラインは、住民にとって大きな感動と喜びだったと思われる。
間島駅では開通の日に大きな杉門を作って昼は旗行列、夜は提灯行列をしたというから現在で言えば上海府に新幹線停車駅が出来たような騒ぎかも知れない。
開業当初の駅前から野潟側にかけては運送業者と国鉄官舎などの建物があっただけだったが、戦後以降に次々と家が建って今のような家並みとなった。
業務の効率化とマイカー時代の到来で昭和40年代後半に無人駅となる。
かつての産業の名残り テングサとイチゴ出荷場跡
現在の新潟漁協の建物の場所がテングサの集荷場だった。テングサはそれまで家計を支える重要な産物だったにも関わらず、昭和50年には全く採れなくなった。当時進めていた三面ダム建設の影響ともささやかれる。
駅前の広場と隣の大きめの建物は、かつてはイチゴの加工場と出荷場だった。
このようなイチゴ関係の施設跡は各集落にも残っていて、それは昭和40年代頃の上海府で、段丘上の畑を利用して盛んにイチゴの栽培が行われていたことを物語っている。テングサに変えて上海府で産地化を目指したのがイチゴだったからだ。
当時は加工場でジャムも作られていた。だが段丘上である事の作業効率の悪さや、連作障害による品質の低下などもあり他の産地に太刀打ち出来なかったのだろうか。上海府の名産品に定着しなかったのは残念だ。
駅から北側の通りが古来の中心部 お寺や昔からの家
駅から北へ少し行った所でも食料品を取り扱うお店があり「まる通」と呼ばれていたという。間島にはこの他にも「でにめ」と呼ばれた商店もあった。
海側に墓地を見ながら北へ進む。間島の家並みは岩ヶ崎、早川辺りと比べると、とてもゆったりとしている印象を受ける。軒数と土地の広さのバランスが良いのかも知れない。
お寺は線路山側にあり普済寺末寺の能化山仲雲寺。
一説には越智の泰澄大師が開祖であり、本尊である十一面観音菩薩も泰澄大師の作であるというが、「ふるさと上海府の歴史」の中でも「信じ難い」と書かれている。境内に咲く春の桜は見事で、電車と一緒に撮影できる場所でもある。
間島のとある本間家は、江戸時代の上海府地域の大庄屋を代々務めており「旦那様」と呼ばれたという。各集落のをまとめる長が庄屋、それら庄屋をまとめるのが大庄屋であり、藩からも特別な扱いを受けて苗字帯刀を許された。
本間家は明治22年の上海府村の発足では、そのまま初代上海府村長を務めた。
庄屋と言われたような家柄は各集落にも伝わっていて「あそこの家は旦那様だっけ立派な家に住んでんだ」と、若干やっかみも含めて使われたりもする。
集落の北側出入り口付近にいくつかの石碑がある。真ん中を通って浜に続くような道筋も見えるが、石碑が何なのかはっきりしない。国道脇には年代不明の大きな法華塔が建つ。
スプリングエフェメラル能化山と、加賀国より勧請の白山神社
間島集落には標高380mの能化山(のっけさん)と呼ばれる里山があり、2コースの登山道がある。海沿いなので春の訪れが早く、カタクリやショウジョウバカマ、イワカガミなどを他の山に先駆けて楽しむる事ができる。
意外と遠方から訪れる登山者もいて、地区内には余所者が来るとクサイ顔をするような空気もあるが案内板を整備するなどツンデレな一面も。っていうか登山させたいのか、させたくないのかどっちなんだ?!
コースは一部ヤブ化しており、腰高に生えるヤマウルシも多く登山道の整備状況は良くない。
北側踏切付近には綺麗に圃場整備された田んぼが広がっている。田んぼの先の山裾、木々に囲まれた石段を登った先に白山神社が祀られている。
永長の頃(1096年)に加賀国白山神社より勧請したと伝わる。石像を白山神として崇敬した他、4柱の神様を祀っている。祭礼は4月12日と10月12日。区長でも御神体は見せてもらえないらしい。
義経伝説の一跳山 トンネル内には一体何が?
間島北端にある山が一跳山で、その昔源義経が奥州に落ちのびる際に馬で一跳で越えたことに由来する。
平成4年頃に海側を回る道路が作られる以前はトンネルを通った。素掘りの岩肌にコンクリートを吹き付けただけのワイルドな仕上げ。ギリギリ車がすれ違いできるほどの横幅しかなく、自転車で通る際には後ろから迫り来るトラックにビクビクしながら通っていた。
柏尾側の出入口もカーブがきつくて通りにくい場所だった。
現在、坑門は頑丈な鉄製の扉でしっかりと閉ざされていてる。入り口の表示を見ると地域振興局が管理していて資材管理倉庫と書いてある。保管物は…ポリ塩化ビニール含有橋梁塗装屑…って要はただのゴミ捨て場じゃないか!
暗くひんやりとした内部を何かのイベントで使えたらと、儚い夢を見た。
一跳山を越えた所で柏尾に入る。
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