様々な村上藩主が入れ替わり、たらい回しに
慶長3年(1598)上杉家が会津に国替えになった後に村上城に入ってきたのが村上頼勝で、石高は9万石だった。資料は残っていないが上海府の村々もこの中に入っていたと考えられる。
元和4年(1618)村上氏の改易により、次に村上城に入ったのが長岡からやってきた堀直寄。石高は10万石。村上氏時代と同じように上海府もこの中に入っていた。この時代の年貢割付状には「海浦組」とだけあり、上と下の区別は無いという。
堀直寄は柏尾の一跳山付近から石材を運び、村上城の郭を拡張して近世城郭に改修した。才覚に優れた人物で早川銀山の開発にも力を入れたという。
村上に多くの功績を残した直寄も嘉永16年(1639)に没し、家督を継いだ孫の直定もわずか7歳で死去したために家は断絶。遺領は寛永19年(1642)から正保元年(1644)まで幕府領となった。
正保元年(1644)本多忠義が10万石で入封するも5年で奥州白河へ移封。
慶安2年(1649)松平直矩が姫路より15万石で入封。三条、燕、白根、味方方面が村上藩領に加わった。この時代に領内の総検地が行われ、多くの田畑検地帳が残されている。上海府では岩ヶ崎・早川・馬下に残る。
松平直矩は寛永7年(1667)に再び姫路へ転封。
寛永7年(1667)に姫路より榊原政倫が入封。榊原政倫は天和3年(1683)に死去すると養嗣子の政邦が家督を継いだ。
宝永元年(1704)に榊原政邦が姫路に戻ると、再び姫路から本多忠孝が入封するも忠孝は12歳で死去したため、宝永7年(1711)にその後を継いだ分家の本多忠良が5万石で入封した。
この時には岩ヶ崎を除く大月・野潟・間島・柏尾・吉浦・早川・馬下の7村が幕府領となり、舘村(胎内市)陣屋付きの領地となった。
ところが同年に本多忠良は三河国に移封となり、替わって入った松平輝貞の知行高が増えたために、上海府全村は再び村上藩の領地となった。
亨保2年(1717)今度は間部詮房入封により知行高が減り、大月・野潟・吉浦・早川・馬下の5村は幕府領となった。
村上藩と幕府間で欲しがったのか、それとも追っ付け合ったのか分からないが、何だかたらい回しにされた感じだ。
この後、亨保5年(1740)に内藤氏が入るとやっと落ち着き、岩ヶ崎・間島・柏尾の3村が村上藩領、大月・野潟・吉浦・早川・馬下の5村は幕府領という事で幕末まで続いた。
誰に支配されようが農地が少なく、これといって有力な産業もなかった上海府では、跡継ぎ以外を地区外に奉公に出すことも多かっただろう。
滝の前の茂助地蔵にはそんな奉公人にまつわる悲しい伝説も語り継がれている。上海府から若者が他所に出てしまうのは奉公DNAがあるからなのだろうか。
江戸時代中期から廻船業が栄える 全国に渡った海の男たち
江戸時代中期頃からは、吉浦、早川集落を中心に廻船業で成功する家が出る。
廻船業者は年貢米の輸送を請け負ったり、自ら品物を仕入れて他の土地へ運んで売って差額を稼いだ。
船主自体が商いを行うのが特徴で、現在のように物価が全国で一定でない当時は地域によって物の値段差が大きく、船主に多くの利益をもたらした。
日本海側沿岸から下関海峡を経由して大阪に向かうルートを西廻り海運と言い、関西方面では北から来るので北前船とも呼ばれ、航路は北海道まで拡大されていく。
新潟県内の主な寄港地は瀬波、新潟、出雲崎、柏崎、上越今町、佐渡小木など。出雲崎湊熊木屋の「客船帳」には寄港した船の名前、出身地、船頭、積荷などの記録があり、中に上海府船の記載も多く残るという。
北海道からはサケ、マス、ニシン、昆布、数の子などの海産物が多く、西からの下り荷は塩、砂糖、鉄、綿、さつま芋、雑貨などを積んで来る事が多かったようだ。
吉浦には廻船業で財を成したとされる「十六人衆」と呼ばれる家が伝わっていて、何かカッコいい。
早川の長門屋次郎左衛門は7、8艘の船を所有し、上海府でも最も名の知られた豪商となった。
幕末の黒船襲来に備えて塩野町代官所が領内で課した御料金でも、長門屋次郎左衛門には最高額の50両が割り付けられたようだ。
難破して漂流した者の記録も残る。早川の五社丸は日本海で遭難し、100日ほども海上を漂った末にオアフ島へ流れ着いた。その間に4人の乗組員が死亡し、半数の4人だけが生き残った。
4人は現地人の世話を受けて1年半オアフ島付近で生活したが、ここで1人が死亡する。その後3人はロシア人の協力を得てアラスカのシトカ、ロシアのオホーツクを経由して松前藩が領地としていた択捉島に上陸することができたという。
記録を見ると親切にされたオアフ島やロシアでの生活とは対照的に、数年ぶりに戻った日本では鉄砲を撃ちかけられたり、江戸で取り調べを受けたりで少しやるせない感じがする。

吉浦の雲冲寺金毘羅堂に納められた船絵馬
船絵馬とは…
航海の安全が保証されていなかった当時、無事に帰還できる事を祈願し、等乗船を描いて社寺に奉納した絵馬。船主・船頭・水主・家族などによって江戸時代から明治時代に各地で行なわれた。
江戸後期の記録を見ると、各集落の軒数は現在の軒数とほぼ同じで人口は上回っている。三世代同居が普通の当時は、一軒辺りの人数も多かっただろう。
幕末になり、戊辰戦争の動乱は片田舎である上海府にも及んだ。
慶応4年(1868)には上海府組は村上藩への軍用金として200両余りを上納している。村上城の落城後も新政府軍の庄内国境への進軍のために、食料の供出や荷運び人足をさせられたと伝えられる。
江戸時代後半の上海府の村々の石高・軒数・人口
村名 | 村石 | 家数 | 人口 |
岩ヶ崎 | 34石7斗9升3合 | 13 | 82 |
大月 | 105石8升8合 | 43 | 187 |
野潟 | 78石6斗1升8合 | 25 | 157 |
間嶋 | 113石3斗7合 | 55 | 338 |
柏尾 | 188石2斗1升6合 | 70 | 313 |
吉浦 | 195石5斗5升3合 | 118 | 572 |
早川 | 157石8升2合 | 119 | 607 |
馬下 | 86石4斗3升8合 | 48 | 219 |
合計 | 491 | 2475 |
※「ふるさと上海府の歴史」59頁より(合計は計算による)
出典は寛政11年(1799)「当未宗門人別家数村高書上帳 吉浦組」(大月・野潟・吉浦・早川・馬下)と嘉永6年(1853)「上海府浦組村々御案内帳」(岩ヶ崎・間嶋・柏尾)であり、村により支配体制が違うため年代も異なる。
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