特に仲が悪かったわけでも無いが、これといって出てくる親父と二人だけの思い出はほとんどない。
その中で出てくる記憶は、幼い頃に親父に車で連れて行かれた岩ヶ崎の海岸のことだ。
正直、岩ヶ崎の海水浴場跡がその場所だったかのかもはっきり分からないけれど、駐車場から広場に出て、海へ降りていく階段だったはずだ。階段の両側には草が茂っているのも、かすかな記憶と符合する。
傾きかけた太陽に照らされながらポテチの袋を片手に階段を降りていく途中、小学校低学年だった私は急に腹痛を覚え、親父にそれを伝えた。
「そうか、じゃあ帰るか…」
結局、私と親父は砂浜に降りることなく帰路についた。家に着くとウソのように腹痛は消え、残っているのは親父に対して何か悪い事をしたかのような記憶。
あの日、たどり着けなかったオレンジ色の日差しの中の海岸。今では砂浜も無くなってしまった。
働き者で知られた上海府の女性たちに対して、男性はどうだったのだろう。
親父の年代の上海府の男たちの多くは船員を生業に選んだ。海の近くで船乗りと聞くと漁師だと思われがちだが、上海府の場合はそうではない。何ヶ月もかけて海外を往来する外国航路の船員が多かったので、ほとんど家にいることはなかった。
そんな同年代が多い中で、設備関係の仕事をしていた親父は夜遅くはなっても毎日家に帰ってきた。
もともとは横浜で働いていて、それから群馬、新潟と職場は地元に近づいてきたらしい。
「年をとって地元に近づいているのに給料は下がっていく…」と周囲に漏らしていたことを三十代になってから親戚の集まりで聞いた。往時の船乗りの給料は破格だったというから肩身の狭い思いをしていたのかもしれない。
年をとって給料は減り、それでも長男でもない親父が地元に帰ってきた理由をもう聞くことはない。
幸か不幸か、親父が地元に帰ってきたから、自分はここにいる。
シティーボーイに生まれたくなかったかと言えば、もちろん生まれたかったが…帰って来たくなる場所、ふるさとがあってそれを守る人がいる。親父との思い出は、今からでもまだ作れるような気がしている。