明治35年、それまでの野潟尋常小学校から移転開校した学校。当初は大月尋常小学校。
昭和16年に大月国民学校となり、戦後の昭和22年に大月小学校といったように名前は時代と共に変わっていった。
昭和35年には再び野潟に移転し(現在の海府ふれあい広場)、野潟小学校となった。
ピーク時の昭和20年頃には、170名もの子どもたちが通っていたらしいが、上海府地区全体で20人に満たない現在と比べると驚くべき数値。
当時の学区は岩ヶ崎〜間島に加えて、昭和25年までは滝の前集落の一部も入っていた。
大月小学校に通った諸先輩方も、まだまだ元気なので色々と思い出話を聞くことができる。
上海府には大月小学校の他に吉浦小学校があったが、吉浦小学校は現在のグループホーム上海府や子育て支援センターのある場所。吉浦小学校は大月小学校より人数が多かったので上海府全体では400人程度の小学生がいたものと考えられる。
信じられないのでもう一度書こう。現在は上海府全体で20人に満たない小学生しかいない。当時の日本の中にこんな状況を想像できた人間がいたのだろうか。
現在跡地の一部は大月の集落改善センターとなり、その周辺に校舎のコンクリート土台と校門跡、近くの畑には養魚場の噴水跡が残っている。