
昭和44年頃の野潟小学校 国道は砂利で護岸も整備されていない
平成7年3月に閉校となった村上市立野潟小学校の跡地。
野潟小学校は上海府の南半分である岩ヶ崎・大月・野潟・間島の4集落が校区となっていた。閉校時の児童数は41名、職員が11名。
朝運動と称して、登校直後から毎日グラウンドを何周も走らされるという、運動嫌いな子どもには鬼のような伝統があった。
「はなます活動」と呼ばれた全校での活動では、地域の自然や地域への理解とふれ合いを大切にして水探検や藁細工などといった活動を行っていた。
現在は海府ふれあい広場となり、校舎の一部は休憩・売店棟として再利用されている。

売店・休憩棟に再利用された旧校舎
閉校時はコの字型の校舎で、現在の売店の辺りが正面玄関だった。
当時は国道より低い位置に校舎やグラウンドがあったので、全体的に土を盛って現在見られるように平らにしたものと思われる。
玄関を入ると左に教務室、右が保健室だった。この保健室、裏が墓地ということもあり、いつも薄暗い雰囲気で利用されている所を見たことがない。
玄関から入って再利用されている建物を抜ける形で海側の体育館へと続いた。
この再利用された建物は昭和58年の建築。当時は赤い屋根の平屋の木造校舎だった。それまでの鉄筋コンクリート製の2階建て校舎が塩害のために使用できなくなり、同じ場所に建て替えられたものだ。

昭和60年頃の野潟小学校(野潟小学校 創立百拾周年記念誌より)
玄関側から1年生教室、6年生教室、図書室、音楽と続いていた。壁は薄く、隣教室で他の子どもが先生に怒鳴られている声が良く聞こえたし、向こうからも良く聞こえたに違いない。
現在は1年生教室は売店、6年生教室は調理室、図書室と音楽室が一つの座敷になっている。壁面に残された本棚に図書室の面影が残る。
体育館は木造で天井が低く、バレーやバスケットをすれば直ぐにボールは梁にぶつかり、床は所々でささくれだってズボンを引っ掛けた。あのまま残っていれば相当味のある建物だったと思う。

海府ふれあい広場 野潟小学校跡の碑
コの字の真ん中にあった中庭のひょうたん池、グラウンドの南にあった黒松の小山、道路側に埋め込まれて並んでいたタイヤなど、当時の雰囲気を残すものは残念ながらほぼ皆無。
野潟小学校校歌
作詞 阿部昌彦
作曲 本間玲子
空とみんなと 海原と
広く明るい 野潟の子
青空呼んで 語ろうよ
太陽と仲良く 語ろうよ
力とみんなと やさしさと
強く明るい 野潟の子
海の遠くへ うたおうよ
北風に向かって うたおうよ
希望とみんなと 緑の山と
いつも明るい 野潟の子
ふるさと愛して 学ぼうよ
確かな未来へ 学ぼうよ
ああ 楽しくたくましい
あしたに 伸びゆく
野潟小学校