上海府地区には岩ヶ崎を除いた七つの集落それぞれにお寺がある。
馬下には海福山永徳寺と呼ばれるお寺があるが、その外観は切妻屋根で、建具も古い一般住宅に見られるような作りであまり寺らしくない。

岸壁麓の境内の様子 綺麗に整えられている
これには理由がある。昭和21年、境内のすぐ隣を走る羽越線のSLが吹いた火の粉が茅葺きの屋根に引火し、当時のお寺を焼失してしまったからだ。
敗戦後の石炭不足の中で使われた代替燃料は、SLの煙突から真っ赤な火の粉を拭き上げさせた。上海府地区は羽越線が縦断しており、その頃には沿線でぼやが頻発し、間島や吉浦でも家屋を焼失する火災が起きた。特に日中の火災は発見が遅れて炎が広がった。
火災で消失したお寺に代わって再建されたのが現在の建物となる。もともと檀家の少ないお寺だった上に、戦後の物資不足の中で多くの費用を掛けて同規模のものを作る事は出来なかった。
位置は焼失前より少し東側に寄っている。焼けた本堂の石組みが現在も見られる。近くに榎の古木があって70年以上経た現在も、焼けただれた跡が生々しく残る。

火事の際に焼けただれた榎も大木に育った 右下に本堂の石組跡が見える

焼失前のお寺 樹種の特定は難しいが建物左に見えるのが榎かも?(永徳寺内の寄贈写真)
お寺は小さな建物で本堂・講堂・庫裏を兼ねる。住職が健在だった頃は住職家族の居住スペースは2階にもあり、講堂の天井が低くて2階が板一枚を隔てて居住スペースというちょっと面白い作りだ。板の隙間から2階が見えたりする。

お寺の内部 天井が低い部分に2階の居住スペースがある
本尊は虚空蔵菩薩というが現在祀られているものはどうやら違うようだ。火事の際に急いで持ち出したという仏像が幾つかあり、その中に虚空蔵菩薩らしいものは無い。
境内には昭和45年まで吉浦小学校の分校があった。小学校の低学年が吉浦まで徒歩で通うのは大変であるとし、冬期限定で設けられた分校だった。
分校建物は当時の馬下公民館と兼用し、現在墓地となっている線路側にあったようだ。
火災時の墓地は集落南側であり、JRの複線化工事でお寺の境内に移設されたという。
墓地の隅に古い小さなお墓が三つ並んでいる。側面に共通して下記のように記載がある
大正十年五月二日鉄道工事殉難者
橋本組 藤間寛一郎 建
これより北の大岸壁下での羽越線トンネル工事で命を落としたと思われる三人を弔うお墓だ。同じ日付なのでこの日、大きな事故があり三人が亡くなったのだろう。
当時の工事では人命は今ほど重視されなかった。作業員はもともと無宿人のような人間も多く集められていて、作業員の脱走話や、逆に脱走して捉えられた者がリンチにあったというような噂も古老には伝わっていた。

大正10年の殉難の墓 これも、もとは集落南側にあったのかもしれない
奴隷の様に働かされて、今となっては…いや、もしかしたら当時から、どこの誰かも知られず、ひっそりとこの地に葬られている作業員の最後だとしたら切ない。
100年越しに関係者の目に触れる事も期待しつつ、ここに三人の名前を記す。合掌
活山玄道信士 大畑廣吉
道山玄路信士 仁登寅次郎
徹山玄底信士 小林政治